決めつけ

 

日本盲導犬協会のCMを観ていてすごくハッとさせられた。

 

内容は盲導犬が世間に誤解されてることに吠える(ワン!ではない)というもの。

皆さんも一回くらい見聞きしたことがあるのではないか。

 

自分を振り返ってみると、盲導犬聴導犬を見た時、可哀想とまでは思わなくても大変そうだとは思っていた。

けれども、CMの盲導犬が言うには楽しめる犬しか盲導犬にはならないらしい。

 

実際は犬と会話できる人なんていないのだから、事細かく気持ちを理解する事は不可能だが、興奮状態か否かくらいは仕草やリアクションで分かる。

 

流石、ペット界の重鎮といったところか。

コブダイの喜怒哀楽なんて分かりゃしないもんな。

 

おっと、話が逸れそうだ。

戻そう。

 

何がハッとさせられたかというと、人間が動物の気持ちを分かった気になろうとしてるということ。

 

つくづく、人間が傲慢なことが分かる。

 

同じ人間ですらどう感じるかどう考えるかを完全に理解し合えるわけじゃないのに、言葉も通じない他の生き物の気持ちなんか理解できるわけない。

 

いや〜怖いな。

 

これはネガティブに思われてるのが勘違いだという例だけど、逆もあると思う。

 

以前、走ってる車から顔を出してる犬を見て可愛いとか風浴びて気持ちよさそうと思っていた。

 

でも、よく考えると人間に比べて圧倒的な嗅覚を持った犬には車内の密室で人間の体臭に耐え切れないからあれは外の空気になんとか触れようとしてるんではないか、と思った。

 

別に正解は犬語がペラペラな知り合いがいるわけじゃないから分からないけど。

 

こうやって決めつけが自分の中にもあると分かったとき、「こっわ」ってなる。

 

なんで決めつけが起こるんだろうと考えたときに、子育てでは鉄板の「他人の立場になって考えなさい!」というフレーズが頭に浮かんだ。

 

他人の立場になって考えるのは非常に難しい。

他人は誰1人として自分ではないから。

 

豊富な経験を頼りに考えて考えて考え抜くと、「思いやり」になる。

 

少しでも傲慢が顔を覗かせて、自分主体になってしまうと「決めつけ」が起こる。

 

でも、思いやることと気を使いすぎることを間違えて、ハッキリとした意見を持たない奴は魅力に欠ける。

 

今のところ、自分の中での解決方法は

 

ハッキリした意見を持って、それを正しいとは思い込まずに自分と異なる意見を聞いた時は、ゆっくりでもいいから噛み砕いて興味を持つ。

 

あら?

また何が言いたいのか分からなくなってきたな。

 

まぁいつものことか。

支離滅裂がおれの取り柄かな?

 

もうほとんど誰もみてないTwitterに載せるだけだからいいか。

 

次はもう少しまとめられるといいな。

 

読んでくれた人ありがとうございました🙇‍♂️

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みなさんは正論がお好き?

多分、明確な終着点はないし、めちゃくちゃな内容になるだろうと思って進める。

 

僕は正論が好きではない。

嫌いと断言しないのは別にあってもいいと思うから。

正論が好きな人を否定するつもりもない。

押し付けてさえこなければ。

 

ただ、世の中に正論が溢れすぎてる。

割合が高すぎる。

 

芸能人の不貞行為に関しては特にそう。

 

いやいや、ずば抜けた容姿や才能を持っている人間のほんの一握りだけが成功できる芸能界でまともな奴がいる訳ないだろ。

 

最近だと、山ピー。

 

マジで男でも惚れ惚れする容姿だ。

 

世間に向かって謝罪なんかするなよ。

 

山ピーの容姿ならチンチンの赴くままに生きて欲しい。

 

法に触れたなら、償うべきだけど。

 

少し話はズレる。

 

僕はオードリーの若林正恭を敬愛している。

(敬称略)

 

単純に面白いからであるが、ラジオでの発言やエッセイが日頃から自分がちまちま考えていることと重なることが多く、そこからもっと好きになった。

 

若林さんのエッセイ「社会人大学人見知り学部卒業見込み」の中で村上龍のエッセイからの引用があり、書店で引用元の本を買った。

 

その本は「無趣味のすすめ」というタイトル。面白かったけど、社会構造に関する内容が多くて難しかった。

 

僕はあまり最初の印象で判断するのが好きではないので、次に「すべての男は消耗品である」という何年も続いているエッセイのVol1を買った。

 

この本で、僕は雷に打たれた。

 

主に、男と女に関して書かれているこのエッセイの中の一文に衝撃を受けた後、爆笑した。

 

その一文とは、

 

【「美人は三日で飽きる」というのはブスの自殺を救うための嘘である。】

 

こんなこと言ってもいいのか!

村上龍かっこ良すぎるだろ!!

これだよ!

僕は正論からソーシャルディスタンス取り倒したこんな暴論が聞きたかったんだよ!

 

別にこれが正しいかなんてどうでもいいんだ!

 

僕はこのような爆音で再生されるものが聞きたいし、観たい!

 

それから、村上龍の小説も何冊か読んでハマってしまった。

 

村上龍は正論が蔓延してることに辟易としていた僕にさした一筋の光。

 

上手くまとまらないとは思っていたけど、ここまでとはなぁ。

 

自分の表現力のなさが悲しいわ。

 

とにかく、僕自身が観てて聞いてて楽しいのは破壊的なものだし、暴論だったり極論だったりする。

 

ドキュメンタルシーズン8楽しみだなぁ〜

 

読んでくれた人本当にありがとうございます🙇‍♂️

 

 

 

 

 

 

 

食物アレルギーあるある早く言いたい〜♫

知っている人もいるが 、僕には食物アレルギーがある。

 

何がアレルゲンかと言うと、せーの!

 

牛乳、乳製品、ピーナッツ、そば、かに!

 

言えた方は古くからのお友達。

寅朗検定2級を差し上げます!

 

生まれた頃は、米も食べれなかったそうで、アワ、ヒエ、キビという謎の雑穀を食べていたみたいだ。

 

嘘かほんとかわからないけど、カエルの肉も食べてたらしい。ゲコゲコッ

 

幼稚園生の頃には、どのくらいのアレルゲン摂取量で反応が起こるかを調べるために検査入院を何回も繰り返していた。

 

もちろん、親も医者も僕のためを思って検査をしてくれていたと今は分かるけど、当時はなんで自分だけ特別体調が悪いわけじゃないのに何回も入院しないといけないんだろう、と思っていた。

 

検査は、例えば牛乳の場合

3滴飲む→1時間様子見

1cc飲む→1時間様子見

3cc飲む→1時間様子見

みたいな感じで、量をだんだんと増やしていき、症状が出たところを限界量として確認するもの。

 

主な症状は蕁麻疹、呼吸苦。

 

全身にブツブツができ、顔も腫れ上がって変形して、気管が狭まって喘息特有のゼーヒューゼーヒュー鳴らしながらなんとか呼吸している状態。

 

ベッドの上で4人くらいの大人に体を掻き毟るのを押さえつけられて、のたうちまわっていた。

 

まるで、拷問だと振り返って思う。

 

本気で医者たちが自分の体を使って、人体実験でもしてるんじゃないかとも考えていた。

 

ちょっと暗い話ではあるけど、小麦粉が食べられる事が分かったのは本当にありがたかった。

 

今では、讃岐うどん大好きラブマジ愛してる。自分で作ることもたまにある。

 

現在、免疫の研究室でアレルギーの研究をしている(まだ、何も進んでいないが)。

 

自分自身のことなので、向学心が低い僕でもなんとか興味を切らさずに出来ている。

 

また、就職について考えだし、自分がどうなりたいのかに向き合う機会ができた。

 

自分のように食物アレルギーを持つ子達が安心して食事が出来るようにしたい。

 

多分、これだと思う。

 

普段、何かにつけて斜に構えてる自分が真正面から言える唯一のもの。

 

生まれてから今までずっと付き合ってきている厄介な食物アレルギーが、僕になんとかまともな目標を与えてくれている。

 

すごく不思議な感覚だ。

 

最後に、タイトルにあるように食物アレルギーあるあるがひとつだけあるので発表されてもらいたい。

 

お惣菜を高く持ち上げて裏の原材料表示を確認する時、変な目で見られがち〜♫

©️出渕誠

 

読んでくれた人ありがとうございました🙇‍♂️

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっとした衝動

僕はどうしてもやりたいことに震えてしまう時がある。

 

橋を渡っている時。

 

橋が高ければ高いほど、自分のスマホを放り投げたくなってしまう。

 

スマホ以外の物はあんまり。

 

海にかかる橋よりは、谷にかかる橋の方が興奮する。

 

文明の力を手のひらサイズにした鉄の塊が、地球の普遍的な重力に全く抗えず、落下して、谷底で叩き割れるのを想像する。

 

想像がリアルであるほど、ニヤニヤが止まらない。

 

水面にポチャンはあんまりそそられない。

 

破壊を感じたいから、ポチャンは微妙。

 

谷底が岩場だった日にはもう、もうキマりまくり。

 

旅行で、大分にある日本一高い吊り橋の

「九重"夢"大吊橋」に行った時は、本当に脳内麻薬ドピュドピュだった。

 

ここから、スマホをぶん投げたらどんだけ気持ち良いだろう。

 

スマートフォンなんていう名前のせいで、のぼせ上がっているはずだ!

 

いい気になってんなよ!

 

そんな奴はこうしてやる!

 

とかなんとか、放り投げる前の馬鹿みたいな前フリを考えるのも楽しい。

 

僕の通う広島大学には、橋がある。

 

工学部の食堂に行くには、その橋を渡らなければいけない。

 

慣れてはきたけど、未だにスマホをぶん投げるのを想像しながらニヤニヤしながら歩いている。

 

すれ違う人には薄気味悪がられてると思う。

 

多分、この衝動はこれからもずっとあり続けるはず。

 

いつか、ぶん投げてしまう日がくるんだろうか。

 

と、こんな気持ち悪い文章を"スマホ"で書いている。

 

文明バンザーイ!!

 

ここまで読んでくれた人、時間の無駄だったでしょ〜笑

 

ありがとうございました🙇‍♂️

 

 

 

いまのじぶんは?

小学1年生の時に、縦割り班でペアを組んでくれた小学6年生はとても大人に見えた。

 

優しくて、落ち着いていて、深い25mプールが怖かった僕に付き添って、浅い5mメートルのプールで遊んでくれた。

 

25mプールに入らないといけない時も、おんぶしてゆっくり歩いてくれた。

 

広くて深いプールにビビり倒していた僕は、大きな背中に温もりと安堵を感じた。

 

普通に年齢を重ねていけば、人に安心を与えられる人間になれると思っていた。

 

けれども、自分が小学6年生になった時、全くもってなれていなかった。

 

当時の僕は、身長が144cmしかなかった。

 

バカだから、そのせいだと思った。

 

チビには安心感など誰も抱かないだろうと、無理やり納得していた。

 

 

中学を卒業した時も、高校を卒業した時も、何も変わっていなかった。

 

高校卒業時は、バカなりに受験勉強に集中しすぎて、家族にキツく当たったり、当たり前の事に感謝しなくなったりしていた。

 

大学には合格したけど、品格みたいなものはまるでなかった。

 

現在、大学院1年生。

 

当時小学1年生の僕と、今の僕が縦割り班のペアを組んだとしたら、安堵や温もりを感じてもらえるのだろうか。

 

身長は、成人男性の平均を超えているので言い訳はできない。

 

22歳なんか、めちゃくちゃ大人だと思っていた。

 

一丁前にヒゲは剃っても剃っても生えてくるけど、内面は何も進歩していない。

 

色々なことに引っかかってしまって、受け止められずに、こうやって誰が読むわけでもない文章を書いている小さい自分に辟易とする。

 

名前はとっくに忘れたけど、ペアになってくれたあの6年生を目標に、人に安堵感を与えられる優しい人間になりたいと心から思う。

 

 

 

読んでくれた人ありがとうございます🙇‍♂️

 

 

ダンスへの尊敬

僕はダンサーを心の底から尊敬している。

 

色々なものに対して曲がった見方をしてしまう僕だけど、ただ純粋に混じり気なく感心してしまうのがダンスだ。

 

これは完全ど素人の捉え方だが、ダンスは自己表現の究極だと思う。

 

全ての動きに一つ一つに意味があるかないかで言えば、ないのではないか。(宗教での儀式や部族の舞、ミュージカル中のそれなんかは別だけど。)

 

 

でも、客前で自信を持って楽しんで踊っている人は、上手かろうが下手だろうが、本当にキラキラしている。

 

それに、見ているとプラスのエネルギーを与えてくれる。

 

なんだろう?このプラスのエネルギーは、感動でもないし、笑いでもない。(感動する人ごめんなさい🙇‍♂️)

 

ずっと考えたけど、プラス(陽)のエネルギーとしか表現できない。

 

僕はどちらかというと何かをする時、マイナス(陰)のエネルギーを使うことが多い。

 

嫉妬や怒り、復讐心、恥ずかしさなどをブレンドしたきったねぇガソリンである。

 

しかし、それだけだと頭がおかしくなりそうで、大学のダンス部さんの公演を見て、プラスエネルギーを分けてもらっていた。

 

僕のエネルギーの逆がダンスを観ることでもらえるエネルギーなのかはわからない。

 

けれど、ダンスを観ることは僕の中の陰鬱なものを吹き飛ばしてくれる。

 

なんとかこころのバランスを保っていたので、ダンス部さんには頭が上がらない。

 

エネルギーを受け取りやすいのは、僕が絶対に人前でダンスをできないからだと思う。

 

人前でダンスをやるとなると、ゴジラ級の羞恥心に踏みつぶされる。

 

自分が出来ないものに憧れを持つのは、ごく普通のことだ。

 

これからも年に一回くらいは、ダンスの公演を観たいな。

 

読んでくれた方、ありがとうございました🙇‍♂️

 

 

 

 

好きと才能

世の中には本当に羨ましい才能を持っている人がいる。

 

そして、その才能を十分に発揮し、目標を達成する事で幸福を感じられる人がいる。

 

つまり、才能と好きの方向が一緒という事だ。

 

そういう人がプロと呼ばれる人になっていくと思う。

 

この才能と好きが「ねじれの位置」にあるのはとても悲しい。

 

小学生の時、空手道場に通っていた。

 

別に自分から習いたいと言ったわけではなく、親に連れて行かれた。

 

そもそも喧嘩なんか大嫌いなのに

無理無理無理!!!と思っていた。

 

しかし、皆さん、空手には「型」というものがあるのをご存知だろうか。

 

いわゆる「演舞」だ。

 

決まった動きを順番通りにこなし、そのキレとかしなやかさを競う。

 

僕はこの「型」がまぁめちゃくちゃに上手だった。

 

小3の時点で、この道場では大人含めても自分より上はいないと思った。

 

四国大会でも準優勝した。(準かい!)

 

食物アレルギーがめんどくさかったから全国大会は辞退した。

 

親はめちゃくちゃ喜んでくれた。

 

でも、僕は全然嬉しくなかった。

 

今でもハッキリと「なんじゃこれ」が頭の中を走り回ってたのを覚えている。

 

いざ相手を目の前にしたら、どんな攻撃を仕掛けてくるかわからんのに決まった動きをして、クライマックスになったら

 

「エイッッッッ!!!」

とか叫んで。

 

終わったら礼して審査を待つ。

 

そんで、判定が出たらまた礼して帰っていく。

 

どうゆうことなのよ。

 

実戦なら、礼して審査されてる間、敵は大人しくしてくれんの?

 

昭和の仮面ライダーじゃないのよ。

 

多分、邪念がなければ優勝出来てた。

 

ほんで、偉そうに「実戦だったら!」とか言う割に、組み手に出場したらチビやし、人殴りたくないし、殴られたくないし、力弱いしで序盤でボロ負け。

 

その度に泣いて、親に「泣くな!」言われて。

 

どうゆうことなん?

 

息子が好きでもないことに親が月謝払ってるってどゆことなん?

 

なまじ「型」が上手くて成績残すから続けさせられるし。

 

なんなん?

 

必ずしも「才能がある=好き」ではない。

 

を学んだ小学3年生だった。

 

 

逆はいっぱいある。

 

お笑いは好きだけど、ワイワイ盛り上がってるところはめちゃくちゃ苦手。

 

バスケットボールは当時のNBA全チームのスタメンの身長体重を暗記するくらい好きだったけど、全くセンスなし。

 

文章は読むのも書くのも好きだけど、まさにここまで読んでみて分かるように文才はない。

 

好きと才能が親友のように肩組んでる人は本当に羨ましい。

 

ここまで読んでくれた人ありがとうございます🙇‍♂️